まちの記憶

まちの記憶は、四街道市内のかつての風景と、
その場所にまつわるエピソードを添えたコラムです。
四街道市に生まれ育ち、その地で70年以上暮らしている画家の福田芳生が、
記憶をたどりながら描いた色鉛筆画とテキストで綴ります。
(絵・文 福田芳生)

#11

懐かしい昭和の家

2005年頃の様子

四街道市津の守通りの総合医薬品店ウエルシアの反対側、四街道公民館への道筋にあった戦前の民家。戦時中の防空法の名残か屋根が黒く塗られていて、当時の面影を色濃く残していた。

玄関のひさしは緩い弧を描く。それは戦前の建物の特徴だ。濃い緑に囲まれた昭和の家も、2019年2月末、ついに取り壊された。

#10

和良比本村の
懐かしい風景

1997年の様子

四街道市和良比本村の懐かしい風景。図右端にチラリと顔を覗かせている瓦屋根の家を過ぎると、大きな長屋門が見えてくる。台地の斜面が左手に広がり、この地点は大きな窪地にあたる。そこは畑になっていて、細長い建物は納屋。図の道を手前に進むと、十字路に出る。それを左方向に進めばお屋敷橋がある。

#9

吉岡十字路近くの
蔵の図書館

2018年の様子

蔵の図書館。吉岡十字路の千葉市寄りにあたる四街道市吉岡49番地にある。岡田家の蔵を改造して、図書館にした。蔵は築130年ほどになるという。2017年春に開館。子どもたちの遊びや勉強の場になっている。蔵の正面に江戸時代の消防ポンプ竜吐水が掛かっている。大きな鉄釜は、当時の生活の様子を物語っている。図書館は月4回ほど開館している。絵はアジサイの時期。緑が最も美しい頃。

#8

四街道十字路に通ずる
中三角踏切

2005年頃の様子

JR四街道駅北口から千葉方面に向かうと、まず和良比踏切が見えてくる。二番目が、図の中三角踏切だ。踏切を渡って奥に進むと、四街道十字路の近くに出る。道幅が狭いため、自動車は通れない。

正面のブルーのトタン張りの家や茶色のバラックは、1960年代の建物だった。2017年5月上旬に、総て姿を消した。現在、草の生い茂る更地になっている。以前、そこから縄文時代の貝塚が見つかっている。

木立に隠れた左側の家も同時に取り壊されたが、こちらは大きなアパートが建設中で、活気に満ちている。

#7

川岸に夏草が生い茂る
小名木川

2006年頃の様子

四街道の風景を描く際、小名木川は省くことのできない重要なポイントだ。JR四街道駅から成田方面に向かうと、車窓遥かに長岡地区の赤い屋根の農家が見えてくる。

地名は新潟の長岡藩の人たちが、この地に移住してきたことに因んでいる。手前は小名木川。カミソリ護岸から、緩やかな斜面が主流になったことが分かる。季節が夏に近づくにつれ、川岸に草が繁茂し、緑一色になる。この長岡地区は、ウォーキングコースとして人気が高い。

#6

昔、四街道小学校の
児童が卒業記念に
植えたサクラ

2001年頃の様子

JR四街道駅北口の千葉寄りに、和良比踏切がある。図はその付近の総武本線沿いにあったサクラを描いたものである。

それは今から約四半世紀前に、四街道小学校の生徒が卒業記念に植えたものだ。80歳を超えた村田元校長が、このサクラの絵を見て、目に涙を浮かべ「君、これだよ、このサクラは私が児童に植えさせたんだ」と大感激だった。現在、切り倒されて無い。

春になると美しい花を咲かせ、夏には涼しい木陰を提供してくれたのに。残念なことだ。

#5

四街道町に
澱粉工場があった頃

1953年頃の様子

大日五差路の近くに、かつて栗原澱粉工場があった。現在の焼肉店「赤門」の真向かいに当たる。図は1953年5月頃の工場の様子。

澱粉はパンに混ぜられ、増量材として、また、お菓子の原料として使用された。食料事情が好転すると、使用料が減じ、工場は閉鎖に追い込まれた。すりおろしたイモから澱粉を得るための沈殿池はそのまま保存され、恰好のプールとしてまちの子どもたちに開放された。確かガリ版刷りの10円利用券で、かなりの時間遊べたらしい。

その後自衛隊員も、ここでときどき水泳の練習をしたという。現在、跡地は完全に整地され、大きなマンションが建っている。

#4

JR南口に急ぐ
サラリーマンの通り道

2004年頃の様子

鹿渡県道踏切左側にある石山商店(八百屋さん)と、伊藤甲進堂(化粧品店)の間に、狭い路地がある。JR四街道駅南口に急ぐサラリーマンにとって、重要な通路だ。ミラーに、向かい側の石橋自転車店が映っている。

道幅がひどく狭いため、先客の自転車が通過するまで、降りて待つのがルール。多くの市民が利用するので、タワシで磨いたように、通路の石畳はピカピカになっている。

#3

元佐原信金前にあった
歩道橋

2002年頃の様子

1962年、現在のイトーヨーカドーの近くに、初めて鉄筋2階建ての四街道中学校が完成した。それまで、陸軍野戦重砲兵第4連隊の薄暗い兵舎で、学ばなければならなかった。生徒たちの喜びは大変なものだったろう。

まちの発展とともに、交通量が増し、生徒の安全を考えて、佐原信金(現在のトヨタレンタカー)前から、中学校正門に達する歩道橋が設置された。学校が和良比に移転したため、2005年2月末に撤去された。懐かしい風景が消えていくのは淋しいことだ。図の右端に私(福田)の自転車がある。

#2

小名木川の遠田橋と
山梨小

2006年頃の様子

日本の6月上旬は野山の緑が最も美しい頃。小名木川を挟んで、図右側の森は鹿渡地区、左は山梨地区になる。図の奥に遠田橋、そして山梨小学校がチラリと顔を覗かせている。

川面には水草が繁茂し、いつまでも眺めていたくなるような、心和む風景だ。

川の垂直な壁をカミソリ護岸と呼ぶ。ひとたび川に落ちると、這い上がることは不可能だった。そのため、全国各地で不幸な事故が起こった。

そんな水難事故を防ぐため、川の両岸を固める石垣は傾斜を緩くし、子どもや犬が落ちても、すぐ這い上がれるように改良された。川岸の小道は市民の散歩道として、愛されている。

#1

元警察の並びにあった
洋品店ヤマヨ

2002年頃の様子

JR四街道駅北口の大通りを、イトーヨーカドー方向に進むと、かつて警察の並びに、洋品店ヤマヨが見えて来たものだ。現在の四街道1丁目6番地付近に当たる。

本店は市原にあり、図は四街道支店ということになる。店の前には赤い大売り出しの幟が幾本も立ち、賑やかだった。近所の奥さんたちが店員として働いていた。大型量販店の出現で売上が落ちたのか、2014年春頃閉店した。その後、学習塾になった。

そして、右側の近江産業の建物も、カワラ屋根の立派な須藤材木屋さんの家も今は無い。

このヤマヨの正面に、大きなサクラの古木があった。花の咲き具合を見て、四街道の開花宣言を行ったものだ。2000年に入って間もなく姿を消した。太い幹が腐って来て、いつ倒れるか危険だと言われていた。